全日本気功師会・気功総合療術院・気功師養成学校

気功の道を正す

大道に形なし、大善に門あり

−−全日本気功師会・会長張永祥を記す

 

 

このような執筆したことは、私は未だかつてない。私が対峙するのは一人の人間ではなく、それは全く新しい、果てしない奥義の世界であり、世界を変えることを可能とする人体科学革命である。--取材手記( 林一祁 )

張永祥は“気”であり、“気”はまた張永祥である。

  張永祥は日本で最も名の知れた気功大師だ。だが張永祥はこれまで周囲が自分“大師”と呼ぶことを許さなかった。曰く、「“気”こそ我々の真なる“大師”である」。

  “気”とは一体どのようなものなのだろうか。「説文解字」によると、“氣”とは「従米気声」に由来する。つまり米という意味と気という発音から成る。米を炊く時に出る「蒸気」という意味だという。それはあたかも雲が起こるが如きものである。この注にはまた甲骨文による解釈がある:“気”という文字はまず三本の長さの異なった横線がある。これは雲の気が横に漂うことを意味している。

  だが現在、簡体字による“気”という文字が多く使われることになったため、人々はすでにその本来の“米”の意味を忘れ、ただそれは漠としたものと記憶し、“それは虚であり実にあらぬもの”と推測するのである。

  世の中のことは往々にしてこのようなものだ。日々空気を吸って生活している我々は、空気の存在など意識することなどない。しかしひとたびそれを失えば、その貴重さが身に染みるのだ。

  師曰く、「智なる者は悟りを開く、大道に形なし。信じれば迷うことなし」。

  “気”とは一体何なのか?張永祥は日本の弟子たちに、自分の考えをこのように説明している。「気はつまり元気であり、正気であることであり、エネルギーである・・・」。日本語には“気”を用いる言葉がとても多い。例えば「ちょっとした“気持ち”」から、「ものすごい“雰囲気”」などまで様々だ。それ故に日本人は中国の気功に親近感を抱いているのかもしれない。日本中どこにでも、「中国気功整体院」と掲げる看板が点在している。

  だが張永祥が一般の整体院を運営する人たちと異なるのは、気功診療を目的とした株式会社を設立した第一人者であることだ。張永祥が創設した気功総合治療院兼、気功師養成学校には、気功を学ぶ生徒や治療を受けに来る患者が絶えることがない。

  張永祥の気功治療はかなり特殊なものである。それは“千里脈診”と呼ばれる遠距離から施す治療で、その病が難病と思われる場合などに用いられる。このような神がかりの医術は、実に謎めいたものだ。信じる信じないは自由だが、同時に信じる信じないを人が決めることなどできない。これは事実として証明されていることであり、信じる者には益がもたされる。

  張永祥が治療した患者の数は数え切れない。その中には羽田孜元首相、大相撲力士の久海島力、香港スターのジャッキー・チェンなどがいる。この気功は実際に目で見ることも触ることもできないが、気功の威力の効果は患者の体の変化から一目瞭然なのだ。張永祥が日本に22年滞在し、治療を施した患者は数万人にのぼる。その豊富な臨床実績は、気功そのものの研究開発に大きく役だっているのだ。

  気功とは中国の古代から伝わるもので、同時に最新の治療方法でもある。古代から現代に至るまでの医学の臨床の歴史を紐解いてみても、気功を施す治療のことはほとんど記録は残っていない。だが張氏気功総合診療方法の登場が、伝統的な治療法に対する革命になったことは確かである。それはメスも使わず、手も動かさないで行う治療法であり、副作用のない安全に治療法なのである。もしこれが広く普及すれば、将来人類に対する大きな福音になることは間違いないだろう。

  先祖から伝わる秘方を流失させることはないのではないか?張永祥は孔子を特に心から尊敬しているため、自らも三千人の弟子を育てたいと考えている。「桃李もの言わざれども、その下自ら蹊を成す」。張は広告には頼らないが、その評判を聞きつけた人たちが集まって来る。現在すでに張の教えを受けた百人を超える弟子達が日本各地に診療所を次々と開き、患者を治療し人々を救っている。北海道から沖縄まで、巨大な「“気功”ネットワーク」が今まさに築き上げられようとしている。実に偉大な事業である。その意義は、まさに張の誓いそのものである。「今は気功をやる人は少ないが、将来は必ず増える」。

  日本人は張を信頼し、そして尊敬の念を抱いている。その医術を大変に敬い、「先生」と呼んでいる。だが張はただ笑顔で、「病気が治ったのは、私ではなく、気功にとって喜ばしいことです」と言うだけだ。

  気功は中華民族文明の宝であり、現在世界各地でその力を発揮している。残念なことに、中国はその貴宝を大切にはしていない。母国・中国の状況を振り返ってみると、気功の園はすでに花が散って衰退している。かつて気功が盛んだった往年の状況はみられない。

  気功は偽科学によって度々批判をされたため、“気功”と耳にするだけで恐ろしいものだと思われてしまう。気功臨床治療の研究開発とその普及は前進しづらい状況に陥っている。加えて昨今、確かに多くの怪しげな「気功大師」が出回ってしまっている。本物の気功師と偽物を人々は見分けることができない。気功は誤解されることのない、本来の正しい姿を示すべきなのだ。

  これは難しいテーマである。「その名が正しくなければ、その言葉も道理にかなわない」ともいう。「まずは名を正した後に、気功の治療と研究は前進が可能となる。そうでなければ、誰もそれに近づこうとはしない。こういう状態では気功を発展させることなどできない。私は常に正論を述べ続けたい。気功そのものの名を正すため、臨床実績を積み上げ、気功の本当の力を実証してゆきたい!」

 

一  「神手張」が一世風靡

張永祥は“気”であり、“気”はまた張永祥である。

  張永祥はあたかも気功のために生まれてきてきたかのようだ。天は張永祥を人間界に与えたが、その志を実現させるためにまず苦汁を舐めさせ、その体を鞭打ち、飢えさえも強いた。

  張永祥は虎年虎月虎日、つまり虎年の元旦に生を受けた。張の記憶の深いところには“飢え”がある。当時(文革の混乱期)飢えを知らずに過ごせた人は誰もいなかった。だが張の飢えはほかの人々とは異なっていた。それは父母の愛に対する飢餓感だった、言葉にすることさえできないその思いは、深く自らの骨に刻まれている。

  輝きを放っていた青春時代、突如暗雲が張を襲いかかった。泣き叫ぶ間もなく、一台の黒いジープが忽然と父を連れ去った。当時政治的に危険人物と目された人物と交友関係を持っていた父は、「歴史的反革命である」と審判を受け、20年もの間監獄に幽閉されてしまった。政治犯という烙印を押されてしまった父はもう傍にはいない。張永祥の人生は狂い始めた。

  言葉はなく、ただその目には虚ろな光があるだけだった。父は目にすることも触れることも叶わなわぬ“気”だった。だがそれはどんな時も張と共にあった。張永祥は厳冬のときも、酷暑のときも修行にあけくれた。何が何でも多くの技を身につけなければならない。宙返り一つにしても、一度に二回転ができるなど、張永祥の身体能力は極めて敏捷だった。

  地元の劇団が張永祥の才能に目を留め、俳優として起用した。ある日の舞台のこと。そこには漆黒の夜に雪が降り、星が輝いている。おどろおどろしい墓地に一匹の灰色のオオカミが身を翻す。静寂の中、オオカミの皮から突如張は飛び出し、見得を切った。

  「パパ、パパ!」、舞台の下にいた二歳の幼女が驚き、つんざくような声で父を呼んだ。しかし張自身はこんなふうに思い切り父を呼んだことなどなかった。父が張にもたらした政治的な影は余りにも重かった。

  地主の出身だった父は社会的な差別を受け、反革命扱いされていた。その圧力は重い岩のように張を押さえつけていた。その岩は壊そうとしても壊せず、押し動かそうとしても全く動かすことができなかった。張は舞台の上では何でも演じることができたし、また様々な武芸にも秀でていた。楽器を自在に操り、脚本作りも舞台演出でも何でもこなした。だが政治的立場に問題があるとされ、張を正式な職員として採用する職場などなかった。

  もしも張が虎の星の下に生まれていなかったら、「黒五類」(文革中出身身分の悪い者とされたグループ)という枠にくくられ、「卑しい犬」くらいにしかなれなかっただろう。当時、張永祥はまさに孫悟空で、如来佛の手のひらから身動きが取れない状態だったのだ。当時、元地主のように出身が悪いということは、孫悟空が頭に緊箍(キンコ)をはめられたのと同じだった。その大志が実現することないよう、呪いをかけられていたのだ。そのため張は心からの愛に自ら手を伸ばそうとはしなかった。ところがその愛する女性は、敢えて張を選んだのである。自ら天職を選ぶことの許されない立場だったが、その天職が彼を選んだのである。この生涯かけるべき天職、それが気功だった。

  その天職は、面白可笑しい舞台とは異なった。それは黙々と何も聞こえない舞台であり、更に大きい人生の舞台だった。

  その年、北国の大地は氷で覆われていた。毛沢東がかつて詩に詠んだような風景で、まさに白い巨象が原野を漫然と歩んでいるような稜線が広がっていた。張はこの雪深い日、一人の気功師を訪ね、その門下に加えてほしいと願い出た。気功師は神の手を持つと言われる女気功師で、その名は遙か遠くにまで知られていた。そこは小さな茅の小屋だったが、二人は手と手を繋ぎ、心と心が伝わった。気功師は張と親子の契りを結ぶと、先祖から伝わる「千里診脈」という医術をついには伝授した。それは千里の距離を離れていても、患者の病気を治せるというもの。それは昔から人類の夢だった。だが古代中国では、これは他に方法がないために実際に行われたのだ。当時、宮廷の医師は皇妃の病気を診るとき、その本人を間近で見ることも触れることも許されなかった。ただ簾を下げたまま問診をし、患者の腕に結んだ赤い紐を一方で持って脈をみたのである。

  実際には赤い紐を用いなくてもよかった。「千里診脈」というのは、医師がその左手を観音菩薩のように構え、患者の体の各部位がどのような状態かを把握できる。こうしてその病がどのようなものか診断し、治療を施す。人間は特殊な訓練を通してこうした超能力を手にすることができるのだ。

  「ああ、私は神の“手”を使えるようになったんだ!」、ある日のこと、張永祥は白く霞んだ大地に向かって大声で叫んだ。興奮のあまり、何度もとんぼ返りをした。そして急いで手から雪を振り払うと、高々とその左手を掲げた。「“手”を、私は神の手を得たんだ!」

  太陽の下で高らかに歌い、青春を担いで前進するのだ。“神手張”(神の手を持つ張永祥)は、時を待たずしてその名が知られるようになった。その気功の力は瞬く間に中国の北から南まで伝わり、張に助けを求める人が列を成した。中華全国中医学会は、張の気功能力を検査したが、まさにその気功は難病から身近な病気まで効果が明確にあると認められた。そのために、張永祥は北京中外気功開発センターの最高顧問や、中華全国特異効能教会理事等に招聘されることとなった。時を待たずして、張は中央軍政の要人を治療するため、高官が住む屋敷に招かれた。また全国各地から、是非来てもらいたいという招聘状が次々と届いた。

  壁の内側で咲く花の香りは外にも伝わる。その香りに引き寄られたのは日本人だった。

 

二 . 日本が気功の実験の場

張永祥は“気”であり、“気”はまた張永祥である。

  時代は一変し、張はその“気”の如く自由を得た。

  1986年7月16日、空はどこまでも晴れ渡っていた。張永祥を乗せたその国際便はゆっくりと成田空港へ降り立った。タラップを降りるとき、張はその新鮮な空気を深呼吸した。この地に降り立って最初に感じたことは、思い切りトンボまわりがしたい、というものだった。

  空港のロビーで、日本の「神影流」、剣道八段総帥石動碩川舟斎会長が、弟子を率いて恭しく待ちかまえていた。この石動会長は日本の射的と剣術の名人で「百発百中の神の打ち手」として、かつては首相のボディーガードも務めていた。

  石動が自らの事業を広げようとしていた時のことだった。ある日、思いもかけない自動車事故に遭い、両手を両手を挙げることができなくなったのだ。

  剣壇にもう一度戻るために、石動は名医を探し求めた。だが全く回復の兆しはみられなかった。ある日のこと、中国から戻ってきた知人が、「神手張」の話をしたのである。張が患者に触れることなく病気を治し、手足を動かさせ踊らせてしまった。その病気は羽もないというのに飛び立たせてしまった。知人はそれを目の当たりにしたのだと語った。

  「それは本当なのか?」石動会長は目の前にいる大柄とはいえない中国東北出身の男を、半信半疑なまなざしで見た。

  もしも信じるのが怖いなら 、それは試さない自分に対して怯えているだけだろう。こうして張永祥の受診が実現した。「神手張」はその左手を挙げて、石動の病状を一つ一つ診断し、さらに患者の体の後ろに向かって気を放った。そうすると徐々に患者は全身を震わせ、怪我をしていた腕を上げては下ろした。それはあたかも雄の鷹が今にも飛び立とうと身震いしているかのようだった。

  だがまだ飛び上がることはでない。両瞼は重く閉じられたままで、石動は鼾を響かせて眠ったままだった。

  目が覚めたのは、朝だった。翌日、石動は手を挙げて、拳を握るなり大声で叫んだ。「一度あの世へ行って来たぞ!」。石動はその後張に5回続けて治療を頼んだ。すると驚くことに、事故による怪我が完全に治癒してしまったのだ。この余りにも不可思議な出来事を理解するのは容易ではなかった。何故6年にもわたって苦しんだ病気が、わずか6回で治癒してしまったのか。一体どのような解釈があるのか。

  神影流の会長が健康を回復すると、訪問客が次々と訪れるようなった。中国の気功のことが毎回話題にのぼり、多くの人たちが一目その奇跡を目にしたい、自分も一度は試してみたいと思うのだった。

  ある武道家は、その牛のように逞しい体で正座をし、張の気に抵抗してみせると言い放った。

  張永祥は笑い声をあげ、力を込めて手を振ると、相手は体中を震わせ顔色は青白くなった。そしてついには耐えきれずにバタンと倒れた。周囲の人たちは驚いた。血圧がゼロに近くまで下がり、呼吸もわずかしかない。だが張は慌てることなくこう言った。「この人はわざと私の気に抗おうとしました。ですから虚脱状態になったのです。しかし、彼は災いを以て福を得ることでしょう」。

  そう言い終えるなり、張は黒砂糖を溶かした水を男の口に注ぎ回復させた。武道家はすぐさま正座したが、臨死状態を経たかのような面持ちだった。そして合掌をして張に深謝したのである。武道家はわずかこの1回の気功を受けたことで、元々持病だった高血圧が治ってしまった。張はこの機を捉えて、なかなか治らない男の病気を治してしまったのだ。実に災いを以て福を得たのだ。男はそのことを悟り、心を打たれた。

  気功の中には一体どれだけの神がいるのか?その威力はどこまで及ぶのか?気功は何故病を治すことができるのか?一体どれだけの多くの病気を治すことができるのか?

  張永祥は、日本が気功の実験の場としてこの上ないことを確信した。それはあたかも一目で恋に落ちたかのようだった。

 

三 .“神手張”と日本の医大

張永祥は“気”であり、“気”はまた張永祥である。

  寅年に生を受けた張は、虎の気迫に満ちている。曰く、「中国人がひとたび日本の地を踏んだなら、その存在をしっかりと示さねばならない」。言うまでもないが、日本医科大学は日本で極めてハイレベルな大学である。この聖域に中国の気功が入って行き、院内に診療の場を持つことは不可能に近いことである。

  張永祥が初めてこの大学の学部長に面会した時のことである。相手は慇懃な物腰だったが、きっぱりと張の受け入れを断っていた。だが幸運なことに、この学部長は中国に対して特別な感情を抱いていた。彼は中国遼寧省で出生していて、張とは同郷のよしみを感じていたのだ。そのために張のために1回だけチャンスを与えてくれたのだ。つまり試験をしてその実力を見てみよう、というものだった。

  それは前例のない特別な試験だった。受験者は正式な留学生ではなく、中国からやって来た「気功の使者」だった。この日、試験が行われたのは日本医科大学付属病院の医局だった。試験官は威風堂々、襟を正して腰掛けている。眼鏡がギラリと光らせ、受験者である張永祥を冷たく直視していた。張永祥は、顔を高揚させ、まっすぐ胸を張っていた。だが教授らが不思議に感じたのは、張はずっと右手で左手を触っていることだった。左手の上に試験の回答でも書いてあるのだろうか。

  最初の試験は、患者の姓名からその病状を診断するというものだった。鈴木医局長は三人の患者の名を差し出した。難題を出して困らせようとでもしているのだろうか?

  張永祥はチラリとそれに目をやるなり、右手で挙げるとそれで左手を支えた。それはまるで観音菩薩のような姿勢だ。観音菩薩と異なるのは、指先がわずかに振動していることだった。張が上げた右手はまるでアンテナのようで、左手は情報をキャッチしているかのようだった。中国医学では脈診を行い、西洋医学では聴診を行う。だが気功は「千里診脈」である。もしも中国医学や西洋医学が二つの目を用いるのであれば、気功は“第三の眼”を用いるだ。見ることのできない慧眼なのである。

  張は試験の回答を出した。一人目は正常、二人目は脳の左部分に悪性疾患がある。三人目は健康といえるが、しかし半年前に重いもの持ち上げた時に筋を痛めてしまい、今も痛みが続いている。

  回答はすべて正しく、試験会場からは驚きの声が上がった。こんな奇跡があり得るのか?まさかカンニングでもしたのではないか?

  鈴木医局長は次に一枚の写真を取り出した。写真には幼い少女が写っていた。張はちらりと目をやると、しばらく考えてからこう言った。「彼女の心臓はもう動いてはいません」。会場からは割れるような拍手が起きた。誇り高い教授たちも心からの喝采を送った。その少女が亡くなったことは病院内では誰でも知っていたのだ。

  試験官は最後に、試験の結果は誤りは一つもなく優秀な成績だったこと、特に三人の姓名から病状を診断するという試験では、その三人目は自分自身であったことを告げた。

  この試験を突破したことで、張永祥は医大初の気功の客員研究員、中国気功の専門医となった。気功の診療課は開設された。ところが誰もそれに興味を持たない。患者の来ない医師は、誰も求婚に来ない婚期を逃した娘のように哀れである。こんな娘に、胸を痛めない親はいない。学部長は婦長に指示し患者を連れて来させた。最初の患者は婦長の母親だった。この日、婦長はいきなり張の元へやって来るなり、こう言った。「母が私のことが分からなくなったんです。私が母を看病しようとすると、母は私を追い出そうとして、自分の娘を捜して来いというんです。母は一度も人を罵ったことはないのに」。張永祥は婦長を慰めた。「大丈夫。お母さんは年をとっただけ。脳細胞が減ってしまっただけ。たぶん昏睡状態になっていて、頭がはっきりしないのでしょう。私に気功で試させて下さい」。

  気功を施しながらやさしくさすっていると、その老人はぐっすりと寝入った。そして目が覚めるなり、自分の娘を認識し、記憶も回復したのだった。

  この気功治療のことは足もないのに飛ぶように周囲に広がった。張の患者は突如として1日に数十人に膨れあがった。一人ずつの治療では間に合わず、まとめて治療するしかなかった。ある患者はベッドに横になり、ある患者は腰掛け、またある者は張の発する気に合わせて体を動かす。寝入ってしまう者もいた。

  患者たちはこうした気功治療を受ける中、目眩や耳鳴り、喉頭ガンや肺ガンなど治療の難しい病状も症状がかなり和らいだ。

  人々はこうした気功の神懸かりな力を目にしたが、何故気功が病を治すことができるのか理解することはできなかった。一体気功でどれだけの病を治すことができるのだろう。張永祥の妻はこう話す。「気功は百の病を治すことができるが、百の病を治すことを保証することはできないのです。もっと気功の技術が進むのを待たねばなりません」。

  張永祥曰く、「古代より現在に至るまで、気功の臨床医術は未だ医学界では正式に用いられてはいない。長い歴史の中にまだ朦朧とした空白が残されているのだ。この医術を実際に人類の健康に生かすために、気功を研究開発し利用を可能になることは、気功を専門にする人たちの歴史的な使命である。必ずそれに立ち向かわなければならない。

  張永祥と数人の教授は一糸乱れず共同研究を始めた。脳の波長や血流を計る検査を行った東京工業大学の佐々木教授は驚くべき事実を発見した。張永祥が気を発している状況下では、そのインダクタンス(生物電感)が普通の人の1000倍だった。日本医科大学の品川教授は張が目を開けている時と目を閉じている時の脳波を測定し、常に大量のα派が出ていることを知った。それは超能力ともいえる脳波なのだ。東京工業大学の樋口教授は張永祥の気を外から1週間当てたハツカネズミのガン細胞が、78%も減少したことに驚いた。張の妻もこうした実験に積極的に参加した。張が気を発している間、採血をして検査に出すなど実験をサポートした。こうした研究結果は次々と国際学術シンポジウムで発表され、大きな注目を集めた。

  ある哲学者はこんな言葉を残している。「志がどれだけ大きいかで、その舞台も大きさが決まる。その志がどれだけ遠くま大きいかで、どれだけ遠くに羽ばたけるかが決まる」

  張永祥は心に誓った。「ガン治療に挑もう。ノーベル賞に向かって前進しよう。人体に安全な医療システムを築き上げよう」

 

四 .気功、入国管理局に闖入

張永祥は“気”であり、“気”はまた張永祥である。

  気功は国境を越える。日本は張永祥が世界に向かって歩み出す最初の窓だった。しかし、かつて憎しみを以て張をこの窓に閉じこめてしまおうという者がいた。

  ある男が張を入国管理局に告発した。「違法な医療行為を行い、身元保証人とも争いごとを起こしている。入管法に則り、張永祥とその家族を国外退去させ、二度と日本の地を踏ませないようにするべきだ」。入管局に呼び出された。鈴木という職員が厳粛な面持ちでその告発文を机にたたきつけ、声を荒げた。

  青天の霹靂だった。張夫妻は体をガクガクと震わせ憤った。張永祥の保証人がある中国人留学生にセクハラ行為をしていた。その状態に見かねた張は保証人をほかの人に替えたのだが、なんとその男は無実の張を入管局に告発したのだった。男はかねてから親しい関係にあった入管局の友人に、張を痛めつけるよう依頼したのだった。

  冷静であることは人としての美徳である。これが張永祥の口癖だが、この時も張は自分を冷静に保った。

  入管局がそのパスポートに「出国準備」の大きな印を押そうとしている、その赤い大きな口のような印を前にしても、張永祥は相も変わらず冷静だった。

  「帰国ですか?構いませんよ。我々を必要としている国は世界中にあるんです。けれど私は日本で法を犯すようなことは何一つしていません。それなのにあなたは個人的な友人関係のために、私を強制帰国させようとしている。私は日本を発つ前に、あなたが私情にかられて違法行為をしたことを訴えますよ」。

  「何故だ?」鈴木は顔色を変えた。

  「何故ですって?あなたはあの身元保証人がどんな悪事をはたらいているのか知っているんですか?」張はその保証人がどのように中国の留学生を痛めつけているかを一つ一つ挙げ、また自分はその保証人の糖尿病を治してやったのに、恩を仇で返すのは、あなたの国では道徳的に許されるのか、といったことを話した。

  「君は彼が長年患っていた糖尿病を治してやったのか?」。小さな目をした鈴木はその顔を疑いの表情でいっぱいにしながら、引き出しから1冊の本を取り出した。そして、「君はこの著者と同じように、気功体操のようなものを教えているんでしょう?」と尋ねてきた。その本は北京中医研究所焦国瑞が日本人のために出版したもので、健康のために役立つ5つの動物の動作を教えるものだった。

  「私はこの5つの動物の動作はできますよ。けれど、私が行っているのは気功による治療です」。張はそう言って左手をわずかに動かした。「例えば私はあなたの父親がガンを患い、すでにこの世にはいないことが判ります。あなたの母親は左脳から出血し、右側が半身不随で言葉を自由に話すことができません・・・」。鈴木はその小さな目を見開いて呆然としていたが、しばらくして、やっとのことで「信じられん」とつぶやくと、後ろの部屋へ姿を消した。

  しばらくすると、鈴木は張に「局長がいらして下さいと言っています」と伝えた。

  入管局の局長は大きなソファにどっしりと腰掛けていた。そして尋問をするような声でこう言った。「あなたは日本医科大学で気功治療をやっていたらしいが、本当ですね」。張は卑屈にもなることなく奢ることもなく、「間違いありません。私は特別診療所にいました。すべて学部長が許可を出した患者のみを治療していました」と答えた。

  局長は可笑しそうに言った。「聞くところによると、あなたは実に正確に病状が判るそうだ。一目見ただけで相手にどんな病気があるか把握してしまう、らしい。その上その両親の病気まで診ることができるそうだが、間違いはないですね?」。

  「中国気功には不思議な力があるんです。人体科学の謎でもあるでしょう。局長、あなたも試してみられますか?」。張はかつて3秒で診断することから、「3秒間」というあだ名をつけられていたことがある。1,2,3、わずか3秒局長の目を見ただけでこう言った。「あなたは喉の調子が悪いですね。医学的には喉に異物があるような感じがするはずです」。

  「ガンになる可能性はあるんですか?」、局長はいてもたってもいられないというように質問した。日本という国は平和な国であるが、ガンの発症率が高い。人々はガンの話題になると表情を曇らせるのだ。

  「ガンになる可能性はありますね。というのはあなたの一族はガンの遺伝がありますからね」。張はゆっくりと答えた。

  「その通り、その通りなんです。私の祖父もガンで亡くなったのです。そうしたら、私の病気を治す方法はあるのでしょうか?」。興味津々で傍にいた鈴木が恭しく一杯の茶を差し出した。張は一口それを飲むと、真摯に答えた。「この世のすべての事象には、病気を含めて同じなのです。すべてにそれがやって入り口と、またそれが消えゆく出口が存在するのです。もしもこの入り口と出口を把握することができたら、解決できないことなどないのです。医大医院にいらして私の治療を受けて下さい。私は体を振動させる健康法でガンに打ち勝つ方法を教えましょう。中国の諺では「百の修行も一度体を振動させることに及ばない」といいます。これは私が中国の古い気功の奥義を研究し、更にそれに手を加えたものなのです。それは短時間で人の体を調整し、体をあるべき状態に戻し、特別なパワーを与えてくれるのです

  張永祥の言葉には力があった。才能のある人間は必ずしも口が達者とはいえない。だが言葉による表現能力に長けてうる人間は必ず才能がある。

  問題はすぐに解決した。病の原因も、そして治療方法も明らかにすることができたのだ。鈴木は例の「身元保証人」の友人として、こう言った。「彼に対して怒りをぶつけたりしないでください。やっと糖尿病が治ったところなのですから。病気を悪化させるようなことはしないで下さい。彼はあなたをちょっと脅しただけなんですから」。

  張は笑いをこらえることができなかった。「そんなことはしませんよ。日本は法治国家で、法規は遵守しなければなりません。同じようにまた我々にも気功を行う上での鉄則があるのです。つまり、善意ある気は千里を行き、その気功の力は日々強くなる、と。私はこの道を背いてまで人の病を治したりはしません。正義の気で以て悪を征するのです。どうぞご安心下さい」。

  もしも当時本当に張永祥を日本から追放していたら、日本にとって大きな損失だったかもしれない。その後、日本の人たちは張に信頼を寄せ、全日本気功師会長に選出した。

  気功は中国の国の宝であるだけではなく、世界の“文化財”でもあるのだ。

  その後、張永祥は日本国籍を取得した。だが自らが中国人であることは胸に刻んでいる。5月、四川大地震で被災者が苦しんでいる中、在日中国人に向かって募金を呼びかけた。また自らも率先して100万円を寄付した。更にチャリティー公演などを主催。全日本気功協会の会員を率いて街頭に立ったりもした。全員白衣を身につけ気功の無料治療を行いながら、街行く人に募金の協力を求めたのである。張は志を同じくする仲間にこう呼びかけた。「気功は人の命を救うことが使命です。気功を行う者は、社会で苦境にある人たちのもとに自ら赴き、第一線で貢献をしなければならなりません。在日中国人は例え国籍を変えたとしても、胸の中には中国人の心が熱く鼓動しているのです。指の先まで流れるその血は永遠に中国の血なのです。被災者を救いたいという愛国心は国境を越えるのです」

  日本国籍を所得してから、張の活躍の場は世界へと広がった。出入国が自由になったのだ。こんな出来事も起こった。かつてアメリカのハワイの税関で、周囲の人たちはこんか不思議な光景に出会った。張永祥が歩いていると、ビンを手にした病人が後ろから追いかけてきた。50メートルの税関の通路越しに、張は手を振って気を発すると、病人はその気を受け取って穏やかに寝入ってしまったのだった。

 

五 . 手術をせずに“三宝”を行う

張永祥は“気”であり、“気”はまた張永祥である。

  彼の気の力は大自然から受け取っている。中でも特に北斗七星が源なのだ。北斗七星の気を以て病の人を救うのである。北斗七星を見上げ、心の中で多くの人を救いたいと願う。

  張は日々奇跡的な治療を行っている。張は北斗七星の気を用いてもっと多くの患者を救ってたいという。もし人々がこんな神業的な治療のことを知ったなら、人類が気功を更に発展させないことは愚かだと思うに違いない。もしもそれをすでにかかっている病気や、また未病に役立てることができればどんなに素晴らしいことか。

  そのため、張永祥は水や空気の美しい南箱根に、温泉のある山荘を構えた。大自然を満喫しながら、臨床気功教学と治療法について学ぶ。山荘の名は「三宝康寿山庄」。「三宝」と名付けたのには深い理由がある。中国医学を専門とする者は、精、気、神を養生のための「三宝」と呼ぶ。民間に伝わる言い習わしでは、「天には太陽と月と星の三宝があり、地には水と火と風の三宝があり、人には精、気、神の三宝がある」とも言う。

  その宝を得ようと、山荘には訪ねる人たちが後を断たない。三宝、三宝、ここでは実に豊富な宝で満たされている。朝起きれば力漲る日の出があり、日暮れには名残惜しそうに山並みに沈む夕日がある。日が沈めば空には燦々と輝く星がある。何と清々しいことか。

  まさに中国の陶淵明の詩にある通りである。「竹の篭の中に久しくいて、突如大自然に帰る」。日々野山を散策して、花や草木に接する。そして「呼吸法」を学び新しい空気を体に吸収する。日々、「震天動地」という気功法を学ぶ。それは張永祥が多くの気功法から選び出した「振動気功(「ぷるぷる気功法」)である。「百の修行も一度の振動には及ばない」、体を振動させると、体中に汗をかく。その後、手足を伸ばして温泉に入るのだ。

  最も美しいのは晴れわたった日に窓越しに見える富士山である。その姿は余りにも近くにありすぎて、まるで別荘の庭に富士山があるかのようである。その姿は人の心を一瞬のうちに捉えてしまうほど美しい。李白は「いつまでも見て飽きることはないのは、敬亭山だけだ」とその詩に綴ったが、まさに「いつまでも見て飽きることがないのは、富士山だけである」。

  ある日のこと、一人の髭を蓄えた年老いた画家がこの山荘を訪れた。画家の名は西川潔。彼は山荘の屋上に上がると、その素晴らしい富士山を見上げた。すると新しい生命の歓喜の声を感じ、絵筆を握らずにはいられなかった。

  西川は前立腺ガンを患っていた。1万7000人に一人がかかると言われているこの病が不幸にも西川を襲った。睾丸のあたりは膿を持って爛れており、その肌の色は直視に耐えないほどになっていた。病院では西川に手術による皮膚の移植を勧めていた。つまり本人の正常な皮膚を取り、両腿から性器のあたりまで皮膚移植しようというのだ。これはかなり危険度の高い大手術で、手術中は全身麻酔をしなければならない。西川はすでに病院で手術後に万一のことがあっても自分で責任を取るというサインまで済ませていた。しかし手術を二週間前に控え、痛みに耐えることができない。そんな時幸運にも張永祥の気功療法と出会ったのである。一筋の望みを胸にここまで受診に来たのだった。

  張永祥はただ手を振り、気を発しただけだった。まったく体に触ることもなく、本当に痛みは止まるのだろうか?ところが、本当に痛みは止まってしまったのである。その上、その陰部の膿をもち爛れた部分が不思議なことに消えてしまったのだ。画家は手術の日取りを延期した。

  こうしてすでに5ヶ月が過ぎた。画家の病状はほとんど収まった。患部の痕が完全に判らなくなった時にやっと病院へ行くと、主治医は驚きで声も出ないほどだった。奇跡、本当に奇跡である。張永祥自身もこれはまさに気功の奇跡だと思った。この病症は自分にとって初めて治療するもので、本当に治すことができるか自信はなかった。しかし患者が手術をする時の痛みを何とかしたい一心で、懸命に気功治療を続けたのである。すると想像を超えて治療は成功した。張は患者よりも喜んだ。命に危険のある手術ではなく、安全な方法で治療を行うことができたのだ。これは人類の医学革命に対する福音ではないか!張はこのテーマで研究を続けていく決意を改めて固めた。

  ある哲学者はかつてこのように語ったという。「生死を分けるのは紙一重であり、それは脆いものである。実際に我々と気功の間は紙一重なのである。あなたがそれを破らなければ、ただ漠とした朦朧としたものが見えるだけである。真偽を見定めるのは難しいが、一度それを破ればそこには素晴らしい世界が待っていて、陽光が燦々と降り注いでいるのである」。

  残念なことにある人はそれを破って中に入ろうとしないばかりか、自ら壁をつくっている。何が何でもこの活路を閉ざそうとして、袋小路に入っているのだ。

  かつてこうした袋小路に入ってしまっていた母と娘がいた。娘は脳腫瘤を患っていて、きちんと話をすることもできず歩くことさえできなかった。手術をしなければ助からないが、しかし手術をすれば命に危険があり、その手術台から生還できない可能性が高かった。母親は娘の車椅子を押して、ありとあらゆる病院をまわった。しかし絶望しかなかったのである。こうした時、偶然張永祥の気功を耳にし、最後の望みを託して診療所にやってきたのだった。母親は涙を落としていたが、その声は枯れていた。「もしもあなたに治して頂けないのであれば、私は娘を水死させ、自分は首を吊って死にます」。

  その涙は氷にように冷え切った血のようで、張の心に一滴ずつ染みこんでいった。母と娘、二人の命なのだ。北斗七星よ、どうぞ私に力をお与え下さい。私にこの病魔と闘い抜かせて下さい。これは最後の闘いです。

  張永祥は両手を挙げて、病魔に向かい闘いを挑んだ。

  奇跡は起こった。一ヶ月後、娘は車椅子から離れ、歩行ができるようになっていた。そして二ヶ月後、身障者が働く工場に就職することができたのだ。

  「三宝」山荘にやってきたその母親は、その素晴らしい富士山を前に喜びで咽び泣いた。「誰がこんなことが本当になるなんて想像できたでしょう?半年前の私たちはどのように死のうかと日々考えていました。そして半年後の今、私たちは今後どんなふうに生きていくか考えているんです。私たちに大切な命を与えてくれた中国の気功に、心から、心から感謝します」。

 

 

六.癌病に挑戦

張永祥は“気”であり、“気”はまた張永祥である。

  張永祥が来日後に育て上げた気功師は一体どのくらいの人数になるのだろうか?日本地図に教え子が開いた診療所をピンで刺していく。すると北海道から沖縄まで星を散りばめたように埋まってしまう。

  張の持論はこうだ。気功というものはすべての人がその生命の中に持っている潜在力だ。重要なのはどのようにしてそれを開発し、刺激し、用いるかである。それは現在かかっている病気だけではなく、未病も防ぐ。張はもっと多くの人たちに、この安全な治療の世界に入って来てほしいと願っている。

  張は先祖から伝わる秘伝に加え、数多くの気功術から選び抜いた教程の中に、郭林流気功と「五禽戯」(5つの動物の動きを模したもの)がある。

  この日、気功の練習場の壁にある大きな鏡の前で、張は生徒たちのために五禽戯の手本を示していた。張の演じる虎は虎の気迫があり、猿は猿らしさがあり、鶴は群れの中で凛と立つ姿を見事に演じていた。生徒たちは興味津津で見入っていた。

  その中の一人に横須賀の観音埼から通って来ている山本裕美という、若く美しい生徒がいた。口数は少ないが、その美しい瞳は表情豊かだった。

  2003年の春、裕美は病院の検診で重度の潰瘍性胃がんだということを告げられた。残された寿命はわずか3か月だった。当時の病院からの治療方針は、胃の摘出をして腸と食道を縫い合わせるというものだった。母の姉妹も同じ胃がんを患っており、病院の指示に従い手術を受けた。

  3ヵ月後、叔母が再び病院で検査を受けると、手術は成功だったことが分かった。しかし裕美は手術を受けなかったため、家族を悲しませていた。

  裕美は気功治療という道を選択したのだった。気功の治療を受けるのと同時に、毎日朝晩気功と振動功(ぷるぷる気功法)を続けた。3か月が過ぎた頃、食欲は増し顔色もよくなり、体重も10キロ増えていた。一方、6か月経ったある日、叔母ががんの再発で亡くなってしまった。この時裕美は健康を回復しただけではなく、なんと天から子宝を授かったのである。2005年1月無事健康な男の子を出産した。それはまるで生命の奇跡だった。日本の医師たちも舌を巻いた。

  ところがその後、裕美は子育てに寝食を忘れ、気功治療と訓練を怠ってしまった。間もなくがんは再発、あの世へと逝ってしまった。裕美は子供を張永祥の奥さんに託し、彼女はその子を我が子のように育ててきた。

  月日はめぐり、男の子は3歳になった。聡明で利発な子供で、父親の張永祥と共に四川の被災地援助のためのチャリティー公演にも出演している。ギターを抱いて弾きながら歌う。父親である張永祥は目を細めて微笑む。だが張には心にまだ引っ掛かっているものがある。がんと闘う使命はまだ果たしてはいない。この道はまだ遥か遠く、試行錯誤せざるを得ない。がん治療に挑戦しよう。我が息子が一生を健康で楽しく過ごせるように。

  父の愛が大空のようなら、浩然の気でおまえを守ろう。母の愛が大地のようならば、温かい胸でおまえを育てよう。

  愛は一番大切なものを変えてしまう。それは心だ。人が愛を持つことでこの世界に対して優しくなれる。自分よりも弱い者に同情し、人を憐れむことができる。心に愛のある人は、必ず温和であり、温和である人は心にゆとりがある、ゆとりがある人は淑やかである。

 

プロローグ:

  「神手張」、張永祥氏にまつわる伝説はすでに数多くありますが、今後ノンフィクション小説の執筆が予定されているので、どうぞご期待ください。「神手張」の気功による臨床経験については8月に現代書林が出版した「気功真髄」にも触れられています。張永祥氏はこの著書の出版のため自ら300万を出資しており、その収益は災害により両親を失った世界中の孤児たちへの寄付を行う基金とすることになっています。

<終わり>